第92回アカデミー賞® 最多4部門受賞
「パラサイト 半地下の家族」を観てきた。
第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編
「パラサイト 半地下の家族」とは
カンヌ国際映画祭では、審査員満場一致で[最高賞]パルムドールに輝いた。
タランティーノ、ジャームッシュら名匠の話題作を抑え、韓国映画として初の同賞受賞という歴史的快挙を成し遂げた。その後も各国の映画祭を席巻。第92回アカデミー賞®国際長編映画賞韓国代表にも選出され、受賞が有力視されている。
メガホンを取ったのは『殺人の追憶』『グエムル‐漢江の怪物‐』など、世界がその才能を絶賛する若き巨匠ポン・ジュノ。本作では、あらゆるジャンルを完璧に融合させながら、いま世界が直面している貧富格差への痛烈な批判をも内包した、超一級のエンターテイメントとして描き切った。
韓国動員1,000万人突破、フランス動員150万人突破、香港・台湾では歴代パルムドール受賞作品において最多動員数を記録。さらには6か国で韓国映画の動員記録を塗り替えるなど、全世界で爆発的盛り上がりを見せる傑作。
今年度の話題作としては「ジョーカー」や
「1917 命をかけた伝令」
が強かったように思う……見てはいないのだが。
「ジョーカー」は「ダークナイト」が凄すぎたので、否応なしに注目が集まるし、
「1917 命をかけた伝令」は完璧な長回しが注目されていた。
何となくアカデミー賞はアメリカ映画が強い印象があったし、派手なアクションがあったり、技術的に難しいことに挑戦している2作品は強力だったように感じる。
そんな2作品を抑えて「パラサイト 半地下の家族」がアカデミー賞を受賞している。
ストーリー
過去に度々事業に失敗、計画性も仕事もないが楽天的な父キム・ギテク。
そんな甲斐性なしの夫に強く当たる母チュンスク。
大学受験に落ち続け、若さも能力も持て余している息子ギウ。
美大を目指すが上手くいかず、予備校に通うお金もない娘ギジョン…
しがない内職で日々を繋ぐ彼らは”半地下住宅”で暮らす貧しい4人家族だ。
”半地下“の家は、暮らしにくい。窓を開ければ、路上で散布される消毒剤が入ってくる。電波が悪い。Wi-Fiも弱い。水圧が低いからトイレが家の一番高い位置に鎮座している。
家族全員、ただただ“普通の暮らし“がしたい。
「僕の代わりに家庭教師をしないか?」
受験経験は豊富だが学歴のないギウは、ある時、エリート大学生の友人から留学中の代打を頼まれる。
”受験のプロ“のギウが向かった先は、IT企業の社長パク・ドンイク一家が暮らす高台の大豪邸だったーー。
パク一家の心を掴んだギウは、続いて妹のギジョンを家庭教師として紹介する。更に、妹のギジョンはある仕掛けをしていき…
”半地下住宅”で暮らすキム一家と、”高台の豪邸”で暮らすパク一家。
この相反する2つの家族が交差した先に、想像を遥かに超える衝撃の光景が広がっていくーー。
ストーリーを読みながら、何となく「韓国の学歴・競争・格差社会」を描いているモノだと想像する。
「普通の人が普通の暮らしができない」という話。
父は楽天的ではあるが家族思いだし、
母は元砲丸投げの選手でメダルを取れる程の実力者だし、
息子は大学受験に失敗しているが真面目で一生懸命、
娘は美術に関しての技術と知識も持っているし、
内職も家族全員で一丸となって頑張って取り組んでいる……失敗して廃品も出ているが。
家族の中に「悪人」なんて存在しないし、なんなら仲もいいし、助け合いながら生活を営んでいる。
そんな家族が「あるきっかけ」から変容していく話。
「ポン・ジュノ」監督とは
1969年生まれの映画監督・脚本家。
長編2作目の「殺人の追憶」(2003年)が韓国内で大ヒット。
続く「グエムル‐漢江の怪物‐」(2006年)は韓国の観客動員記録を更新。
「グエムル‐漢江の怪物‐」は、昔、映画を見たし、
つい最近もAmazon primeで見た。
最初は「日本でいうゴジラみたいなものかな?」と思っていたが、全く違っていた。
怪物が生まれたのは、米軍の命令で漢江に流した化学物質が原因。
人間の科学の発展の副産物で生まれた、という点ではゴジラと似ている、
というか、怪物映画は往々にして「科学の発展によって自然が脅かされ、その結果で生まれたものが、人間の生活を脅かす」というモノだと思う。
それでは怪獣映画かと聞かれたら、全くそうではない。
まず怪獣が魚や蛙が融合したようなヘンテコな容姿だし、かっこよさの欠片もない。
そして「怪獣を倒してハッピーエンド」というわけでもない。
最後まで見たら「怪獣映画の皮を被った、韓国社会の風刺映画」だという事がはっきりとわかる。
それがわかった瞬間に忘れることができない監督となった。
今回の「パラサイト 半地下の家族」も同監督だとわかった瞬間に楽しみにしていた。
「ソン・ガンホ」とは
1967年生まれの俳優。
1996年に映画「豚が井戸に落ちた日」に出演し、長編映画初出演を果たす。
1997年に「ナンバー・スリー」に出演し、大鐘賞新人男優賞、青龍映画賞助演男優賞などを受賞し、一躍脚光を浴びる。
その後、数多くの映画に出演し、多数の賞を受賞している。
初めて「ソン・ガンホ」を見たのは、それこそ「ポン・ジュノ」監督の「グエムル‐漢江の怪物‐」だった。
主人公のパク・カンドゥを演じており、その役が表面的ではなく、奥深くに何が眠っているのかわからない闇を感じさせる芝居だった。掴みどころが全くない感じとか、凄かった。
次に見たのは「タクシー運転手 約束は海を越えて」だった。
1980年の光州事件の実話を元に描いている。
主人公のキム・マンソプを演じており、「グエムル‐漢江の怪物‐」と違って、爽やかなよき父親を演じている。最初は同一人物だと認識しておらず「どこかで見たことがある気がする」と思う程度だった。
2つの作品を比較すると、極端に振れているように感じるが、そのふり幅が無理がないのに広いというのは驚愕だった。
そんな「ソン・ガンホ」が「パラサイト 半地下の家族」ではどのような父親を演じるのか……。
感想
以下、ネタバレ含みます。閲覧注意。
複雑化する対立構造
「半地下」に住む主人公一家と、
「高台」に住む金持ちの一家と、
2つの家族を住んでいる場所の高さを変えることにより、明確な対立構造を生み出している。
息子と娘が家庭教師となり、
父親がドライバーとなり、
母親が使用人とり、
主人公一家が「半地下から成り上がる話」という認識で映画が進んでいく。
しかし物語後半には、高台の家の「地下」には、元使用人の夫がパラサイトしていることがわかる。
この瞬間に「2つの家族の対立」という単純な構造ではなくなった。
第三者が介入することにより「半地下から成り上がるか、落ちていくか」という構造に変化した。これが凄い。
最終的には母親と息子は半地下の生活に戻り、
父親は殺人罪からの逃亡で地下に逃げる、という結末になる。
何とも後味の悪い結末を迎えるのだが、
ただ「胸糞が悪い」という終わりじゃないのが素晴らしいところだ。
決して消えない臭い
この映画のキーに「臭い」が存在する。
人間の持つ五感の中で最も本能的な働きを持つのが嗅覚だ。
どんなに外見を着飾っても、
どんなに裕福に振る舞っても、
どんなに嘘を重ねても、
「半地下暮らし」という「臭い」が染みついて取れない。
事ある毎に高台の主人はその臭いに嫌悪感を示す。
その臭いの原因が何かはっきりとわかっていないが、
「本能が拒否している」という感じに見て取れる。
その臭いへの嫌悪感が最後の凶行の引き金となっている。
意識しなければほんの些細な「違和感」や「嫌悪感」だったはずなのに、
それが積み重なった時に、いとも簡単に一線を越えていってしまう。
計画と無計画
物語の中盤を過ぎた辺りで、
大雨により半地下の家が浸水して水没しかける事件が起こる。
一家は体育館に避難して一夜を過ごすこととなる。
その時に、息子に父親が「失敗しないコツは無計画でいることだ」と告げる。
最初、この言葉を聞いた時は「なんて屁理屈だ」と思った。
しかし、物語の後半でこの言葉が最後の伏線を回収する事となる。
高台の主人を刺殺した父親は、高台の家の地下に逃れる。
生き延びた息子は父親を助けるための計画を立てる。
それは「金持ちになって、高台の家を購入し、父親を助ける」というモノだ。
一見すると何も間違ってもいないし、合理的な判断だ。
しかし、そのための「どうやってお金を稼ぐか」というプロセスが全く示されていない。ただの夢物語なのだ。
間違っていないけれど、全く現実的ではない希望を示され、何とも言えないモヤモヤとした気持ちを抱えることになる。
その時に「失敗しないコツは無計画でいることだ」という言葉が響く。
無計画でいることは失敗もしないが何の希望もない。
計画をすると失敗するし希望が潰される。
計画があろうが、無計画であろうが、
最終的には「緩慢なる自殺」に追いやられる未来が浮かぶ。
最後に
初めて見た韓国映画は「トガニ 幼き瞳の告発」だった。
何の希望もない位に完膚なきまでに叩き潰された。
その頃から韓国映画は頻繁には観ないのだけど、定期的には観たくなる。
バッドエンドへの振り方がえげつなさ過ぎて好きなのだ。
「パラサイト 半地下の家族」は是非見てほしいと思う。
ここに書ききれない程の伏線が散りばめられている。
安易なバッドエンドではなく、社会に対する風刺的なメッセージや、根底に流れる「貧困」「格差」というモノを感じる。
たぶん「胸糞の悪い映画」ととらえる人も一定数いると思う。
それは「誰に感情移入するか」によって大きく違ってくる。
この中に「明確な悪人」は存在しない。
ただ「生きている人々」が描き出されている。
その人間関係の糸が複雑に絡み合って、解けなくなって誤解を生みだしているだけに思える。
しかし、立場の違うに人間たちは、本質的に分かり合う事ができるのだろうか?
というか、我々人間は、そもそも「変わり合う事」ができるのだろうか?
大きな無力感に包まれる映画だった。